第72回トルコの夕べトルコ・ドラマ『オスマン帝国外伝―愛と欲望のハレム』試写会【終了しました】 | 日本・トルコ協会 | The Japan-Türkiye Society日本・トルコ協会 | The Japan-Türkiye Society

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トルコの夕べ

第72回トルコの夕べ
トルコ・ドラマ『オスマン帝国外伝―愛と欲望のハレム』試写会【終了しました】

第72回「トルコの夕べ」
第72回「トルコの夕べ」
第72回「トルコの夕べ」

 

2017年7月31日、伊藤忠ビルにて「第72回トルコの夕べ トルコの歴史ドラマ『オスマン帝国外伝―愛と欲望のハレム』試写会」を行いました。試写会に先駆け、作家の澁澤幸子さんにドラマの時代背景や登場人物をご解説頂き、第1,2話のダイジェスト版を視聴しました。試写会後はCS放送チャンネル銀河の今関さんから見どころの紹介がありました。39名の参加者があり、「ドラマ放送が楽しみ」という声が聞かれました。

 

【講演要旨】
「オスマン帝国歴史ドラマの楽しみ方」
作家 澁澤 幸子(会員)

 この度、日本で初めて放送されるトルコの長編歴史テレビ・ドラマ『Muhteşem Yüzyıl(壮麗なる世紀)』。協会員の皆様の中には、トルコでこのドラマが大変な人気を博したことをご存知の方も多いと思います。邦題は愛憎劇を匂わせる「オスマン帝国外伝―愛と欲望のハレム」となっていますが、オスマン帝国の最盛期を築いた第10代スルタン・スレイマン大帝と、皇妃のヒュッレム・スルタン(ロクセラーナ)を中心に、政治、戦争、人間模様などが描かれた、歴史好きな方が見ても満足のいく壮大な歴史大河ドラマです。トルコで大変なヒット作となったのも、トルコの方々が祖先の築いたオスマン帝国の歴史に関心を持つようになったからだと思います。私は1998年にスレイマン大帝とヒュッレムを中心にこの時代を描いた歴史物語『寵妃ロクセラーナ(集英社。現在は絶版)』を出版致しました。ドラマも著書も、ストーリーは史実をもとに脚色しているため内容のずれはありますが、どちらも史実を骨幹としているので、両方を比較しながらでもお楽しみ頂けると思います。
 主人公のスレイマン大帝は、1453年にコンスタンティノープルを陥落せしめたメフメット2世の曾孫にあたり、1520年に26歳で即位し71歳で、戦陣で亡くなりました。オスマン帝国史上、最も長く統治し、最も繁栄した時代を築いたスルタンです。父セリム1世の時代までにオスマン帝国の基礎が築かれていたこと、スルタンの地位を争うべき兄弟がいなかったことも、“壮麗なる世紀”をもたらした要因といえるでしょう。スレイマン1世は優れた資質を持った人物だったといわれています。即位した翌年1521年にハンガリー遠征、1522年にロードス島を攻略して聖ヨハネ騎士団を駆逐、1526年にモハーチの戦いでハンガリー進出、1529年に第1次ウィーン包囲、1538年にプレヴェザの海戦等、計13回の遠征を行っています。
 ドラマのもう1人の主人公、スレイマン大帝の皇妃ヒュッレムは、現在のウクライナ出身で15、6歳の時にタタール人に誘拐されてイスタンブルに売られ、奴隷の身からハレム(後宮)に入った女性です。スレイマン大帝の寵愛を受け、四男一女を授かり、オスマン帝国スルタンの正式の妃にまで上りつめる大出世を遂げました。当時、スルタンは公的な婚姻関係を結ばず、スルタンの子どもを産んだ女性はカドゥン・エフェンディ、長男を産むとバシュ・カドゥン・エフェンディ(第1夫人)と呼ばれました。しかし、前例のない出世から周囲との軋轢もあったようで、西洋人たちから「ウクライナあたりから拾われてきたロシア女」というやや軽蔑をこめた「ロクセラーナ」というあだ名で呼ばれることもありました。
 他の重要な登場人物には、少年時代からスレイマンに仕えていた、親友であり忠実な臣下であったイブラヒム・パシャがいます。当時ベネツィアの領土だったギリシャ北部パルガの出身で、デヴルシメ(異教徒少年徴集制度)により徴集され、大宰相にまで出世しながら、後に暗殺されます。また、スルタンの長男を産んだバシュ・カドゥン・エフェンディのマヒデブランはヒュッレムと対立する女性で、女性同士の人間模様もこのドラマの見どころのひとつです。
 さて、このドラマは史実を基本にしていますが、事実と異なる点がいくつかあります。まず、ドラマでは、トプカプ宮殿内にハレムがあるように見えますが、コンスタンティノープルを陥落せしめたメフメット2世は、最初、バヤズィット広場の現在イスタンブル大学がある場所に宮殿(エスキ・サライ)を建てて私生活の場とし、トプカプ宮殿は執務用としていました。トプカプ宮殿にハレムができたのは、スレイマン大帝の孫にあたるムラット3世の時代です。「愛と欲望のハレム」という邦題にふさわしい時代は、むしろスレイマン1世の没後、息子のセリム2世や孫のムラット3世ら凡庸なスルタンの時代でしょう。皇太后や妃たちが権力を握って政治をも動かした時代、Kadınlar Sultanatı(女人政治の時代)です。また、宦官長(クズラル・アース)のシュンビル・アーが、アフリカ系でないことにも気づかされます。ハレムの宦官はアフリカから連行され、奴隷市場で売買されていたという残酷な歴史背景から、視聴者に不快感を与えないための制作サイドの配慮だそうです。さらに、ヒュッレムをはじめ高貴なハレムの女性たちが、ウェスタナイズされたドレスを着ていることも挙げられます。本来はもっとオリエンタルなスタイルだったはずですが、デザイナーが、現代の視聴者が美しいと感じられるようにと提案したのだそうです。
 このドラマは、スレイマン1世がオスマン帝国を統治した16世紀西洋史にも目を向けると、さらに面白くご覧になれると思います。スレイマンが即位した1520年に、ハプスブルクのカール5世が神聖ローマ帝国の皇帝として即位しています。カール5世は当時、フランス王国のフランソワ1世と覇権を争っていました。このフランソワ1世はスレイマンと同じ1494年生まれです。つまり3人の青年王がヨーロッパで相争うという歴史ドラマが展開された時代なのです。加えて、マルティン・ルターの宗教改革の嵐が吹き荒れ、イベリア半島では既に大航海時代が始まっていた頃であり、ヨーロッパ史から見ても、非常に興味深い激動の時代でもあったのです。
 スレイマン1世の治世は「壮麗なる世紀」と呼ぶにふさわしい時代でした。この時代には、イスタンブルに多くの美しい建造物が建てられました。イブラヒム・パシャの館は現在のトルコ・イスラーム美術博物館として残っています。アヤ・ソフィア前にはヒュッレムが建てたハマムが、いまも営業しています。スレイマニイェ・モスク、スレイマン大帝が早世したメフメット皇子のために建てたシェフザデ・モスクも、イスタンブルに現存しています。これらを見学したうえでドラマを見ると、面白さもひとしおと思います。

 

―禁無断転載―
(『アナトリアニュース』第145号 2017年9月号より)

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