「日本トルコ外交関係樹立100周年」によせて
私の祖父とトルコ
日本トルコ外交関係樹立100周年おめでとうございます。
日本・トルコ協会の「日本・トルコ 100 年の歩み」のサイトに、私の祖父、米澤隆輔が写っている写真をみつけて大変嬉しく思いました。軍人(陸軍歩兵少佐。のちに大佐)、外交官、著者であった祖父とトルコの関係についてご紹介させて頂きたいと思います。
この記念写真は、昭和 14 年 6 月 16 日に、東京会館で開催された第15回定時総会並びにヒュスレブ・ゲレデ大使送別晩餐会のものです。中央に高松宮同妃殿下がご着席になり、殿下の右にゲレデ大使がいらっしゃいます。その後ろに立っている口髭の人が私の祖父です。当時、祖父は渋谷区神山町にあったトルコ大使館に勤め、トルコ大使をはじめトルコ人と交流し、トルコ学者で回教圏研究所設立者の大久保幸次氏とも親しくしていました。ト ルコの外交官はフランス語が堪能で、祖父と母たち家族もフランス語を話しましたので、米澤家にいらっしゃるトルコ人とは、フランス語、トルコ語、日本語を混ぜて話してい たそうです。
写真に写っている祖父の友人についてお話ししたいと思います。祖父の一人おいて右隣の黒縁眼鏡の方が、大久保幸次先生です。宣仁親王妃喜久子殿下の後ろに立っている二人の背の高いトルコ人は、左がシェレフ・カラプナル武官(海軍大尉。のちの海軍大将)、右がゼキ・エンヴェル・バヤット武官(海軍少佐)で、お二人は日本の海軍士官学校の留学生です。中近東文化センターの「エルトゥールル号回顧展」のカタログには、シェレフさんとゼキさんが袴を履いて弓道をしている写真が載っています。ゼキさんは日本語がペラペラで、1938 年に、祖父と共著で『土耳其語会話 Türkçe-Japonca Muhavere Kitabı』(三才社)という日本人とトルコ人双方が使える会話本を出版しました。毎日のように家にいらしていたゼキさんとは家族のように親しくなり、ゼキさんの犬の産んだ子犬をもらって育てたそうです。
祖父は馬術が得意で、リュシュテュ・エルデルフン武官を陸軍の演習に馬でご案内したことがあり、「ルスチューさん(子どもたちはそう呼んでいました)の手綱捌きは素晴らしかったよ」と感心していたそうです。
家族全員で、ゲレデ大使邸にお茶に招かれたこともありました。小学生から15歳くらいの三姉妹はお振袖を着て、下の二人の弟たちはスーツを着て出掛けました。イギリス風の洋館でお茶やトルコのお菓子を頂き、とても素敵だったので、家に帰ってからお皿やティー・カップを並べて真似をしたと言って、母は笑っていました。
若いトルコ人のメイドさんが、日本語で藤原義江(当時大人気のオペラ歌手)の歌を歌って盛り上がったので、みんなで一緒に歌ったそうです。その曲は「出船の歌」で、“ど〜んとどんとどんと波乗り越えて〜”という歌はインパクトがあって母はよく覚えていました。
1937 年 6 月 3 日には、和歌山県串本町に、新しいエルトゥールル号慰霊碑が建立され50周年追悼祭(実際よりは3年早め)が行われました。これは、アタテュルク大統領の命による国家的行事でした。祖父はアタテュルク大統領を大変尊敬していましたので、元軍人でアタテュルク大統領の盟友であったゲレデ大使と一緒にプロジェクトに参加出来たことは光栄なことでした。
私は、2012 年の春に串本を訪れて慰霊碑に参拝し、串本町役場の方々、1890 年に実際救助に当たった方のご子孫にお会いしました。そして、町役場の方から貴重な 1937 年の慰霊祭の動画を見せて頂きました。ゲレデ大使はじめ関係者の方の動く姿を拝見して、自分もその場にいるような気持ちになり感動しました。
祖父がゼキさんと書いた『土耳其語会話』には、日常会話やトルコの諺とともに、「陸軍」「海軍」などの章が設けてあります。著者が軍人だったので軍事専門用語を載せたのですが、特殊な船や飛行機、機械、装備などの用語は普通の通訳ではわからないことで、そういう意味でも役立つ本だったと思います。
母の実家は東京大空襲の被害で多くのものが焼けてしまい、祖父の著書も失われたのですが、2008 年に工学院大学でみつかったのを皮切りに、国立国会図書館、国際交流基金、北海道大学、立教大学、武蔵大学などにも保存されていることがわかりました。そして、2011 年の夏にイスタンブルの古本屋さんにあることがわかり、私はトルコを訪れてアヤ・ソフィアの近くの本屋さんで購入することが出来ました。祖父が書いたトルコ語の本を 73 年ぶりにイスタンブルでみつけるなんて奇跡のようでした。
この訪問では、トルコ初の PR 会社「İMAGE」を設立したベテュル・マルディンさん(アトランティック・レーベル創設者アリフ・マルディン氏の姉)にお会いし、元ゲレデ大使邸や記念碑を案内して頂きました。大使がお住まいだった邸宅はニシャンタシュにあり、ベテュルさんはゲレデ大使の息子さんと同じ学校に通いました。現在高級ブティックが並ぶニシャンタシュは 1930 年代もパリのような雰囲気の町でした。ベテュルさんは、「昔はこの町で人に会うと“Bonjour, canım(sweetie)” という風にトルコ語とフランス語の混じった挨拶をしたものよ」とおっしゃったので、母の話と似ていると思いました。